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平成241018()、私はオックスフォード大学シェルドニアンシアターで開催された、「第5回国境なき合唱団チャリティーコンサートinオックスフォード」に参加する機会に恵まれ、今回も生涯忘れられない体験をすることができました。

 

 特に今回の演奏会では、オックスフォード大学にご参加をよびかけたところ、同大学のあたたかいご理解とご協力のもと、同大学ジャパンソサエティ(OUJS)が東日本大震災復興支援というチャリティの趣旨に賛同してくださり、企画運営に全面的にご協力いただけたことが最大の特色でした。同大学の由緒あるクイーンズ・カレッジ合唱団と、同大学トリニティ・カレッジの管弦楽団であるトリニティ・オーケストラが共演してくださいました。

 

 

  <オックスフォード大学シェルドニアンシアター>

私は、第1回目のウィーン公演にはじまり、第3回目ベルリン公演、第4回目プラハ公演に引き続き、今回の「日本の歌、イギリスの歌」と「ベートーヴェン交響曲第九」の合唱に参加しました。会場は、世界最高峰の名門オックスフォード大学で卒業式などに使われ、同大学の学生たちにとっても特別な場所と言われている同大学シェルドニアンシアター。17世紀半ばに建てられた円形の美しい歴史的建造物です。

 

            

                              シェルドニアンシアター

 <練習会>

演奏会にむけての練習は7月から計8回、団員のIさんが新橋に所有されているビルの二階で行われました。練習終了後には、毎回、同ビル1階にある系列のレストランや新橋駅周辺のおしゃれな居酒屋で懇親会を行い、団員相互の親睦を図ることができました。最後から3回目の練習会では赤坂区民センターで腕試しと音のバランスを調べるためのホール練習を行うなど、全体として大変有意義な練習になりました。

 

今回も指揮者の佐藤一昭先生とピアノの原恵子先生による、粘り強く私たちを「楽しくのせる」ご指導により、難曲に苦労した時期もありましたが、無事に演奏会に臨むことができました。

 

 

 <演奏会大成功>

今回、第九の指揮者とソリスト4人はイギリスの方々にお願いしました。オックスフォード大学とオックスフォード大学ジャパンソサエティなどのご協力により、今回も多数のお客様にお越しくださいました。

 

第九のあとのアンコールとして、イギリスの第二の国歌と言われるエルガー作曲「威風堂々」を、演奏会第一部で驚異的に上手な合唱を聞かせてくれたクイーンズ・カレッジ合唱団と一緒に演奏したところ、トリニティ・オーケストラも第九の演奏にも増して、がぜんノリノリで、終了後はお客様全員が起立され、総立ちのスタンディングオベーションをいただきました。ご寄付もたくさん集まりました。

 

 

      

                       総練習でのひとこま

 

<ヘレンハウス訪問とオックスフォード大学自然史博物館での演奏>

国境なき合唱団では、海外公演のたびにいつも現地にある子どものための施設を訪問して、ご寄付の品々をお届けしています。

 

今回は、演奏会当日の1018日午前中、団を代表して、実行委員10人ほどで、オックスフォード市内にあるヘレンハウスという、障がいや難病のある子どもたちとそのご家族のための有名な施設を訪れ、参加団員一人一人が準備したたくさんの文房具など、ご寄付の品々をお届けしました。あわせて「実行委員会アカペラ合唱隊」により、「ふるさと」、「赤とんぼ」、「大きな古時計」などの歌を子どもたちやご家族と施設の職員の方々のために歌い、大変喜ばれました。

 

                  

                                ヘレンハウスの美しい庭

 

 

また、ヘレンハウスに続いて、オックスフォード大学自然史博物館で、大学のご許可のもと、その日の夜の演奏会の広報を兼ねて、大きな恐竜の標本の前で、「ふるさと」と「赤とんぼ」を、やはり「実行委員会アカペラ合唱隊」により、ちょうど博物館を訪れていた方々にご披露したところ、こちらでも大変あたたかく歓迎されました。
 

 

       

          自然史博物館入口での試演会案内広告

 

 なお、今回の上記二つの訪問活動は、いずれも少人数という条件で訪問先から許可をいただいたため、実行委員会が団を代表して行ったものです。

 

<「国境なき子どもたち」写真展>

当合唱団の演奏会と並行して、シェルドニアンシアター近くのセントヒルダ・カレッジにおいて、認定NPO法人「国境なき子どもたち」(knk)が現在まで行っている、東日本大震災で被災した子どもたちへの支援活動を紹介した写真展が開催されました。これもオックスフォード大学の御好意のもと、オックスフォード大学ジャパンソサエティ(OUJS)のご協力により開催されたものです。私たち合唱団員も演奏会直前に会場を見学することができました。未来に向かって勇気と希望がもてる写真が集められていました。

 

       

          「国境なき子どもたち」写真展

 

 

  <オックスフォードの町並み>

私にとってイギリスは何回か訪れたことはありましたが、オックスフォードは今回初めての訪問です。冬のオーバー、マフラー、手袋を準備し、寒さ対策を十分していきましたが、さすがにマフラー、手袋までは不要だったものの、オーバーは時間帯や場所によってとても重宝しました。

オックスフォードは大学町としても著名です。何世紀にもわたる長い歴史による風格は圧倒的で、特に庭の手入れが行き届いていることが強く記憶に残りました。

 

 

       

     通りがかって美しさに驚き撮影したオックスフォード市内の一風景

 

 <おわりに>

今回も、演奏会を無事に大成功させ、「アートボランティア」としての実をあげることができたのは、実行委員長の王野さんを中心として、実行委員、参加団員一同のチームワークと、主催されたエフエム東京、後援団体、協賛企業の皆様、オックスフォード大学、ツアープランナーオブジャパン(TPJ)の皆様などの強力なご支援の賜物です。あらためてあつく御礼申し上げます。

 

 これからも合唱ボランティアとして皆様とともに歌声をつないでいきたいと思います。次の機会もぜひご一緒に歌いましょう。ありがとうございました。

 

 

 

 

待ちに待ったプラハ公演のDVDが届き、早速再生しました。爽やかな風に吹かれたプラハの街角に立ち戻った心地で見入る内に演奏会の模様が現れました。スメタナホールの響きはどんなふうに観客に届いたのだろう。私のバスパートの存在感は?合唱全体のハーモニーは?と耳をそばだてる内に「日本のうた」が始まりました。

「国境なき合唱団」のことを知り、今回初めて富山県の県境から参加しましたが、3回参加した合同練習の初回で佐藤先生から日本のうたも歌ったらどうかと勧められ、思い切って参加することにしました。4曲ともややこしいところがあり、覚えるのに必死でした。 you-tube から取った合唱曲と送ってもらったカラオケを繰り返し聞き、ipodに入れてフライト中も聞き続け、本番直前にも確認して臨みました。それだけにこの「日本のうた」はとても気になるものでした。

「赤とんぼ」が静かに情感を込めて滑り出し、「ふるさと」は多くの願いを込め、慈愛と強い意志を表現できたようです。軽快・巧緻な「そうらん節」 は佐藤先生の指揮に緩急ぴったり合い、思いがけないアンコールにもしっかり応えていました。「大地讃頌」ではダイナミックな原先生のピアノをバックに各パートが競うように力一杯伸びやかな声を響かせ、「がんばろう日本」を支えているように感じました。何度聞いても心に響く合唱になっており、我な がら一員として歌ったことに満足を覚えました。

第九はこれまでにも何度か歌っていますが、毎回特徴づけるものがあり感慨も少しづつ異なります。世界に名だたるスメタナホールの合唱席に立って会場を見渡し、チェコ室内フィルと歌ったことは生涯の思い出となりました。そして最も心を打たれたのは「モルダウ」です。合唱だけで練習していた時と違い、フィルの壮大な演奏が始まって私たちの歌声がのり、ユニゾンならではの一体感と力強さがうねりとなって琴線に触れ、耳に入った途端思わず涙がこぼれました。雄大かつ優しさに満ちた旋律をフィルと合唱のコラボが奏で、こんなに深い印象を与えることを一人の観衆になって味わいました。

ツアー直前に義父の様態が悪くなりやむなく女房はドタキャンしましたが、合同練習には一緒に参加していました。練習後の懇親会で、女房は新潟から今回初参加というK子さんと話がはずみ、K子さんは同じ新潟から参加しておられるAさんに一切をお任せして付いて行くとのことで、私たちも一緒に行動しようと誘われて喜んで従うことにしました。成田で仙台からのMさんとも名のり合い、その後一緒に本当に贅沢な、そして珍道中ともいえる旅が始まりました。思い出に特に印象的だったことをいくつか書いて見たいと思います。


・ウイーンの街、美術史博物館

ウイーンの午後はフリータイムになり、横浜のH子さんも加わってAさんに引きつれられ美術史博物館に行きました。ここからはAさんのガイドぶりに唖然としっぱなしでした。有名なブリューゲルの「バベルの塔」についての解説はもちろんのこと、次から次と表れる絵画について宗教的な背景から絵のポイントまで深い深い説明があり聞く方も大変です。しかも、次の角を曲がるとこんな絵がある、と言われるので以前来られたことがあるのか聞くと今回が初めてとのこと。一体どれだけの事前調査があったのかと舌を巻くばかりです。ただ、調べる方の身にはなっても聞く方には(とりあえず私には)まるで空念仏の 如しでした。大理石で包まれたここのカフェーも豪華でした。ウインナーコーヒーやアイスクリームの解説を聞き、豊かな気持ちで味わいました。

オペラ座前の広場に腰掛けて道行く人を眺めた後、ゲルトナー通りをシュテファン寺院までぶらつきました。街頭演奏やらアクロバットパフォーマンスを眺め、孫にもってこいの簡単なおもちゃを買い、しまいにオペラ座でベートーベンとモーツァルトのマグカップを買いました(これは帰国後の素敵な日用品になりました)。

時間があるので市電で一回りしようということになり、ちょっとマップで調べた後えいやッで乗り込みました。回りの人が切符の買い方を教えてくれました。市電は途中で乗り換えなければなりません。Aさんと私とで乗り換えポイントの見方が違いましたがAさんに譲りました。結果は下車した後おろおろすることになり、この頃から現地判断は少しづつ私の方に移って行ったように思われます。

美術史博物館のカフェー   ゲルトナー通り      市電で遊覧

・黒ビールにワインに料理

私は心に残るイベントがあると1枚のA4サイズのレリーフにして残すことにしています。今回いくつか選びだした写真は1/3がジョッキーを掲げているものになりました。ブラティスラバ城の高台レストランの明るい陽光と爽やかな風の中で交わしたビールや街頭レストランでの一杯。特にプラハのビアハウスの肉料理と黒ビールは最高でした。アコーディオン演奏に日本の曲をリクエストし、立って一緒に合唱し、ゆっくりと会話を楽しみました。 話題は多岐にわたり様々なうん蓄が飛び出し笑いが絶えません。2時間で引き上げるつもりが軽く4時間を超えてしまいました。

合唱ツアーのレリーフ

   プラハのビヤホールで乾杯  パリの街頭で乾杯


・極上のカフェ

プラハでは男3人、朝5時にホテルを抜け出て旧市街やカレル橋を散策し、おおよそ街の概要を把握しましたが、ぜひともヴァーツラフ広場は見ておかなければならないとのAさんの言葉に従って午後の自由時間に5人で向かいました。プラハのシャンゼリゼとも言われる700mの大通りです。プラハの春の後ソ連軍の戦車が入り込み、ヤン・パラフが焼身自殺した場所であり、1989年のビロード革命では100万人が集うなどなど歴史上数々の出来事がありました。

  

      ヴァーツラフ広場

広場の突き当たりに見上げるばかりの豪奢な建物があり、Aさんによれば有名なプラハ駅だとのこと。プラハ駅は私も是非訪れたい場所だったので早速向かいました。立派な石段をMさんと登りな がら、線路はどこだろう、ちょっと変だね、と言って受付の太っちょおばさんに「ここは駅ですか」と聞くと、おばさんはたちまちクスッと笑って「美術館ですよ」とのこと。私たちも大いに笑いました。その後Aさんは皆を集め、すましてヴァーツラフ広場の解説をはじめました。

プラハ駅は芸術的にも価値ある有名な建物です。左に折れると500m程のところにあることが分かり向かいました。中央にドーム型の天井を持ち、回廊にはいくつも彫塑がしつらえてありますが、今駅務は地下に移ってしまい、ドーム内の時計は止まったまま、とっくに忘れ去られた佇まいです。簡素なテーブルとイスが数席ぽつんと置かれ人影もありません。かろうじて飲み物があることが分かり、奥の店員を呼びコーラを注文しました。座って眺 めまわすうちに映像が鮮明になりとても懐かしさがこみ上げてきました。40年前の凍てつく中、放浪の途中で私はプラハを訪ねたことを話しました。カレル橋の漆黒の人像は半身こびりついた真っ白な雪におおわれ水墨画のようでした。プラハの春の3年後、街中にはソ連軍の戦車が飾られ、夜、人のいない真っ暗な旧市街の広場では情宣用の8ミリフィルムが音もなく壁に写しだされていました。すっかり帳が下りたプラハ駅に降り立ち、3日後の深夜便でベルリンに向かいました。深夜の駅はコートに身を包んだ大勢の人であふれ、乗車時刻を待って一人片隅にたたずむ若き日の自分の姿が目に浮かびました。Mさんはうなずきながら「ここは極上のカフェだね」と言いました。

 

  シックなプラハ駅構内         極上のカフェ


・料理学校での「ふるさと」

パリに入る前、”のだめ”のロケが行われたというシャトー・ドゥ・ヴィニ―に寄りました。中世の物語に出てくるようなこじんまりとした城です。ツルバラをはじめ赤白の花が咲き乱れ、堀の水面には城壁が絵のように写り、広々とした庭には大きく枝葉を広げた巨木が立ち、静かなたたずまいは渋い落ち着いた雰囲気を醸し出しています。ここは城ごと日本の料理学校が買い取って料理教育に使用しており、日本からも数十名の若者が住み込みで腕を磨いているということです。場内を見学した後、私たち一団のためにレストハウスに昼食が準備されていました。高卒間もない研修生たちが料理し、給仕も研修生です。またも昼のワインを頂き、研修生の話を聞きながら料理を味わい至福のひと時を過ごしました。私は「お返しにふるさとを歌おう」と言いました。Aさんが前に立って指揮を始めるや、訳もなく涙があふれ出し歌も途切れ途切れになってしまいました。私は、年がいくと涙もろくなってしょうがないなと心の中でうそぶいていました。

       
   シャトー・ドゥ・ヴィニ―       勢ぞろいでご挨拶
      
        Dコースの皆さんと

・パリの地下鉄

地下鉄を使ってルーブル美術館に行こうということになり駅に行きました。販売機でのチケットの買い方が分かりません。5人5様で試みましたが現地判断では私の方が勝っていました。子供の操作を眺め、マウスならぬローラー式の選択器で画面を操作して購入にたどり着くことができました。ルーブルでAさんの解説をたっぷり聞き、教養を膨らませた気になった後、再び地下鉄駅に戻りました。ここでミスが発生しました。構内はいくつも枝分かれしていますが、先頭を行くMさんの後を皆疑いもせずについて行きました。ホームでは浮かれて撮影などして、やって来た列車に乗り、3つ目の駅で降りて地上へ出たところどうも風景が違うような気がしました。丁度通りかかった絶品のパリジェンヌに”ここはどこ”と聞いたら優しく英語で地図を示して答えてくれました。全く逆方向に来ていることが分かりました。Mさんは平謝り、Aさんは安全を見てタクシーで帰ろうと言いましたが私は、逆戻りすれば間違いなく帰れると言ってさっそうと先頭に立ちました。この時同行していた府中市のKさんは、日本を出る時旦那さんから絶対に地下鉄など乗るなと言われていたけれどいい土産話ができたと喜んでいました。

                  使えば便利なパリ地下鉄

・セーヌ川ナイトクルーズ

今回、期待の一つはセーヌ川ナイトクルーズでした。夕張下りる頃船は滑り出し、フランス料理とワインに軽やかなシャンソンで心は自然に浮き立ちます。Aさんはフランス語で枯れ葉を歌い出しました。両手を広げ口を突き出し、いっぱしの歌手気取りが様になっています。Mさんは軽く合わせて指揮を取り、K子さんは少しワインが入ってうっとり顔です。歌い終わった時には思いっきり相好が崩れました。期せずも後ろのお客さんから拍手が起こり、一層上機嫌です。では、ということでいよいよ合唱団の本領発揮となりました。3曲、4曲と歌い、もともとあやふやなところもあり、後半はだみ声やら消え入るやらで終わりましたが、それでもパチパチと拍手を貰い、歌ったことで満足でした。岸辺の灯りが際立ってくる頃、船上ライブの歌声は一層軽やかになり、ダンスも始まりました。客の中に我が富山県出身の新婚さんがおり皆で祝福しました。ライトアップされたエッフル塔を眺め、満たされた心地で船を降りてからも、私はバスにたどり着くまで体をゆすりながら鼻歌でシャンソンを歌い続けていました。

     

            優雅なクルージング      

・良縁奇縁

相田みつをの言葉に「そのときの出逢いが人生を根底から変えることがある よき出逢いを」というのがあります。いい体験をしたこと以上に、この合唱団を通じて得た皆さんとの触れ合いはまさに奇跡の出会いのようです。帰国後の8月初旬、5名に加え、今回ドタキャンした私の女房も入れて6名が新潟のAさん別邸に集いました(Aさんはこの同舟庵を皆さんで大いに活用して欲しいとのことです)。

地元の特産品を持ち寄って話がどんどんはずみ、写真やビデオなども見ながら、日が替わってからも延々と談笑が続きました。この合唱団を通じてもっともっと隔たりのない交流が広がって行けばいいなと思っています。王野さんの熱意と奇跡的な巡り合わせでこの企画が実現したことをホームページで知りました。参加する私たちもこの奇跡を大いに活かせていけたらと思います。

        

          帰国後の交歓(新潟市山裾の邸にて)

このほかににもいろんなことがあったように思いますが、帰国後すべてをギュッと凝縮してエッセーにしてみましたので最後に記します。

それでは皆さん、またお会いしましょう。


<スメタナホールでの第九>

客席にはベラ・チャスラフスカさんがいる。日本大使を始め大勢の現地の方がドレスアップしてチェコ室内フィルが奏でる重厚なベートーベンの響きに聴き入っている。いよいよ第4楽章、ティンパニの連打の後一瞬の静寂、ソリストが高らかに「おお友よ」と歌い出した。一気に集中力が高まり「国境なき合唱団」に応募した80余名と共に第九の合唱が始まった。

定年退職を迎えた時「今後の夢」を書き出してみた。その一つが夫婦でヨーロッパの第九に参加すること。機会は思わぬところから飛び込んできた。 昨年、黒部で「レクイエム」を歌った折りの指揮者横島勝人先生からの案内だった。先生はこのチャリティーコンサートで指揮を執ることになっていた。労せず巡ったチャンスに迷わず申し込んだ。

プラハが世界に誇るスメタナホールの響きは切れるように清明だ。遥か星座に一筋の祈りを届け、声を揃えて世界を歌う。私のバスパートは8名と心もとないが、それだけにしっかり役割を果たしている充実感がある。合唱の持つ敬虔な響きを心に感じ壮大なフーガを経て、シラーが表した歓喜「美しい 神の炎」を精一杯歌いあげた。アンコール曲「モルダウ」はチェコ人の「ふるさと」。雄大な旋律は大合唱となってこだました。真っ先に立って拍手を 始めたのはチャスラフスカさんだった。次々とスタンディングオベーションが広がり場内は歓呼に沸いた。

演奏会、打ち上げ、訪問地でのハプニングや旧知の友の様に感じた仲間との数々。次はどの街で歌うことになるか、楽しみが一つ加わった。

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早くも、コンサートから1ヶ月。燃え尽きて帰国しました。毎回こんなふうなのですが、今回は、この演奏会が決まってから、日本にも自分の身の回りにもいろいろなことがあり、改めて、自分ができる時に、できる事を精一杯しなくては、との思いが強かったような気がします。歌えることの喜びが、東京での練習会、プラハでの練習会、ゲネプロ、本番、アンコールと、どんどん膨らむばかりでした。特に、「大地讃頌」は、練習の時から、歌うたびに涙があふれるのをがまんするのが、大変でした。

 

そして迎えた本番、第1部から大きな拍手をいただきました。最後まで集中力を切らすことなく歌い、アンコールでは再び「そうらん節」を歌いました。佐藤一昭先生と原恵子先生、合唱団員一つになってプラハ・スメタナホールで歌えたことの幸せを、感じました。

海外の舞台では、毎回予期できない困難がつきものです。でも、今回も工夫したり、我慢したりしながらよい演奏会にしようとする、団員のすてきなハートに触れ、気持ちも温かくなりました。

第2部は、ベルリンに続き横島マエストロ、チェコ室内フィルハーモニー管弦楽団、蔵野蘭子さん、日野妙果さん、西村悟さん、平野和さん、という豪華な出演者の方々で、「交響曲第九番」が始まりました。すごい!! 思わず観客になってしまい、その音に入り込んでしまいました。(どっぷり聞いていて、自分が歌うところを慌てて思い出すことも)お客さまも皆さまじっくり聞いてくださっているのが、舞台からわかり、一つになっていると感じました。

アンコールは、「モルダウ」でした。オケの前奏が鳴っただけで、もう涙が止まりませんでした。鳥肌が、立ちました。その音は、チェコのオーケストラだけが出せる音だと思いました。それは、滞在中毎日見ている川の流れそのもので、チェコの歴史そのものだと感じました。

いつも一緒のメンバーはお休みだったので、一人参加でしたが、先生方や団員皆さまとたくさんお話しができて、よくしていただき、すばらしい演奏旅行となりました。

番外編

今回のツアーで

 うれしかった。なんと言っても「幸せそのまんまのKさん」の結婚のお祝いをできたことでした。こんな出会いが人生の中にあるんだ!すごーい!私もうれしかったですよ、Kさん!

びっくりした。プラハで利用した地下鉄のエスカレータ。早い!急傾斜!長い!もう、早いと言ったら早い。ピョンと飛び乗る、さっと飛び降りるっていう感じです。でも、おばあちゃまも、つえをついたひとも、子どもを連れたお母さんもへいきです。後ろを向きで彼女と話している男の子もいます。私は、完全に腰が引けていました。

 美味しかった。一番最初にチェコで食べたクラッカー。チェコ航空の機内で出た、塩とチーズがきいたクラッカーなのですが、美味しかったのでお土産にしました。ビールに合うわ、と皆さんに好評でした。

安くて美味しいビール。たくさん飲めない私ですが、いろいろ試してみました。味が濃いお料理が多いので、合うんです!最後に、フランクフルトの空港でもいただきました。

 美しかった。音楽が聞こえてくるような風景。旅行者の私に親切にしてくださったプラハの人たち。小学生の時、テレビで見た体操の女王、民主化のためにおくられた厳しい人生をひめたチャフラフスカさんの笑顔。

平成2369()、プラハのスメタナホールで開催された「第4回国境なき合唱団チャリティコンサート」に参加して、今回も一生忘れられない体験をすることができました。

特に今回は、3月に起きた東日本大震災の影響で日本全体に重苦しい雰囲気の漂う中、団員一丸となって、本演奏会を大成功に導けたことに大きな意味があると思います。

<スメタナホール>

私は、第1回目のウィーン公演と前回のベルリン公演に引き続き、合唱ボランティアとして、「日本の歌」と「第九」に参加しました。会場は、映画「のだめカンタービレ」でも舞台となったスメタナホール。会場とその音の響きは映画をしのぐような美しさです。

           (スメタナホール)

<震災と練習>

練習は、3月から計8回、実行委員のIさんが新橋に所有されているビルの2階で開催されました。毎回練習終了後には、同ビル1階にある系列のレストランで懇親会を行い、合唱団員の親睦を深めることができました。

練習は当初、震災の影響で出席者はやや限られていたようで、私自身も自宅エリアが液状化して上下水道がしばらく止まったため、最初の2回は欠席せざるをえませんでした。しかし、時間の経過とともに出席者も増え、仙台や福島在住の団員も熱心に通ってこられるようになりました。今回も指揮者の佐藤一昭先生とピアノの原恵子先生による、粘り強く私たちを「楽しくのせる」ご指導により、無事に演奏会にのぞむことができました。

(プラハの練習会場The Civic Center Mlejnでのオーケストラあわせ。児童施設Child’s Smile 財団のために団員が持ち寄ったご寄付の品々もここで集められ、団員有志が同財団の施設を訪問、寄贈しました。施設からは、小さな子どもたちのためのウェットティッシュと絵本のご希望がありました。)

<演奏会大成功>

今回、ソリスト4人は全員、海外でも大活躍されている日本人の方々にお願いしました。指揮は前回のベルリン公演に引き続き、横島勝人先生です。

ソプラノソリストの蔵野蘭子さんと当合唱団員テノールのKさんとの結婚が現地練習会席上で公式発表され、団員一同で祝福しました。おめでとうございます !

           (スメタナホール客席から)

また、演奏会にはご来賓として、ご後援くださった在チェコ日本国大使館の國方俊男大使ご夫妻、そして東京・メキシコオリンピックの女子体操金メダリストのベラ・チャスラフスカさんをお招きしました。当合唱団にとってこれほど名誉なことはありません。

プラハ到着後、実行委員長の王野百合子さんと私の二人で、國方大使にご挨拶にうかがった際には、大使をはじめ館員の皆様から心のこもったあたたかいお励ましをいただきました。このようなご挨拶にうかがう中で、現地で要職にある日本人Kさんが急遽、合唱団バスのメンバーとして演奏会に出演されることになったのはうれしい驚きです。Kさんはなんと、わずか二日間で全曲を暗譜してスメタナホールの舞台に立たれました。演奏会当日は、日本大使館、現地日本人会、日本人学校などからもご家族づれで多数の方々がご出席いただき、熱心に応援してくださいました。

           (総練習開始前にスメタナホール合唱団席から)

音楽会が毎日多く開かれる欧米では集客に少々苦労するところですが、幸いプラハでも現地のお客様がたくさんお越しいただけました。

今回、当合唱団では、第一部の4曲目「大地讃頌」を日本再生のための祈りを込めて歌う歌として位置づけ、演奏前に指揮者の佐藤先生から会場の皆さんに英語とチェコ語で「次の歌の間、私たちと一緒に日本のためにお祈りください」と呼びかけました。第一部終了後は拍手が鳴り止まず、当団演奏会史上たぶん初のアンコールとして「そうらん節」を再度歌うこととなりました。

また、第九の後のアンコール(実はこちらは準備していました。) として、チェコの第二国歌と言われるスメタナ作曲「モルダウ」をオーケストラとあわせて歌った後は、ご来賓のベラ・チャスラフスカさんが起立されたのをきっかけとして、お客様全員が起立され、文字通り総立ちのスタンディング・オベーションをいただきました。

           (男声楽屋 あふれる笑顔)

(演奏会後の懇親会 チャスラフスカさんとお嬢さんを囲んで佐藤先生の指揮によりモルダウを合唱)

<初訪問のプラハ>

私にとってプラハは初めての訪問です。コートなどをトランクにつめ、寒さに備えて出かけましたが、現地に着いてみると東京よりも暑く、さっそく半袖シャツを買いに走りました。昼頃になると、暑がりの私には日向で歩いているのが大変なくらいの暑さのため、時差ぼけで超早起きになったことを幸いとして、ひんやりと心地よい午前8時前の街歩きを楽しみました。この時間帯は昼間、各国の観光客で大混雑するカレル橋付近も人影がまばらです。スメタナ博物館などの文化スポットも訪問できました。

          (スメタナ博物館の中 撮影料をお支払いして撮影する仕組み)

演奏会翌日は、世界遺産の中世の古都、チェスキー・クリムロフへ日帰りで行き、南ボヘミアの美しい町並みを心ゆくまで堪能しました。

          (クリムロフ城壁越しに見た、いつまでも眺めていたい町並み)

<おわりに>

今回、困難な環境の中、演奏会を無事に大成功させ、「アートボランティア」としての実をあげることができたのは、実行委員長の王野さんを中心として、実行委員、参加団員一同のチームワークと、主催されたエフエム東京、後援団体、協賛企業の皆様、近畿日本ツーリスト(knt ! )などの強力なご支援の賜物です。あらためてあつく御礼申し上げます。

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Century;mso-hansi-font-family:Century”>これからも合唱ボランティアとして皆様と歌声をつないでいきたいと思います。次の機会もぜひご一緒に歌いましょう。ありがとうございました。

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「国境なき合唱団」のみなさん、お変わりありませんでしょうか。ことに東北地方のみなさんは大地震、大津波に加え原発事故と国難ともいうべき事態にもかかわらず多くの方々が復興にむけ諸活動を精力的に取組まれていることと思います。

このような中、プラハ公演まで1ヶ月足らずとなり練習も後半に入りGWには仙台や福島のみなさんも参加され元気な姿を見せて熱を帯びてきました。私にとって「国境なき合唱団」のこれまでのウィーン、シンガポール、ベルリン講演はいずれも心に残るコンサートであり、旅でした。残念ながら私は今回所用で参加できませんが、練習で多くの懐かしい方々とお会いしてプラハ公演を前に前回のベルリン公演とドイツの旅について記憶を辿りながら振り返ってみました。

1.ライプツィヒと滝廉太郎

ドイツ東部の古都「ライプツィヒ」といえば、聖トーマス教会に代表されるバッハの聖地ですが、この古都が「滝廉太郎」にとってもゆかりの地であることを知ったのは、5年ほど前、上野の旧奏楽堂で行われた「アンサンブル of トウキョウ」の定期演奏会での金昌国先生の話でした。このアンサンブルの演奏会は、金先生がユーモアを交えわかりやすく解説をしてくれるので私は毎回楽しみにしているのですが、この中で金先生は滝廉太郎について次のように話されました。

 

 

滝廉太郎は、21歳でライプツィヒ音楽院に留学したが、肺結核に罹り1年半で帰国を余儀なくされ、わずか23歳の若さで亡くなった。

②その短い生涯のなかで「荒城の月」「花」等多くの名曲をのこした。

③私自身も若いころ結核に罹ったがペニシリンのおかげで生き延びた。可能であれば入れ替わりたいぐらいの惜しい才能であった。

④滝廉太郎がせめてモーツァルト(37歳)ぐらい長生きしていたら音楽の歴史も大きく変わっていただろう。事実、同時期にライプツィヒ音楽院に学んでいたブラームスより成績がよかったという声もあった。

⑤志半ばで病に倒れ音楽に対する思いのたけを表した滝廉太郎最後のピアノ曲「憾」(うらみ)は日本人が誇れる素晴らしい曲であり多くの人に知ってほしい。

このピアノ曲「憾」はアンコールで演奏され、金先生の解説のとおり「こんなすばらしい曲があったのか」と驚くとともに私にとって心に残るコンサートでした。コンサート以降、この曲は私のウォークマンに深沢亮子さんのピアノでショパンやメンデルスゾーンの曲の間に収録されていますが、全く違和感がなく知らない人が聴いたらショパンの曲と間違えてもおかしくないすばらしい曲です。是非一度聴いてみて下さい。

そして後日、近くの図書館でふと手にした滝廉太郎に関する本の中で、国際メンデルスゾーン基金などがライプツィヒで彼が下宿していた場所に記念碑建立を計画し、ライプツィヒ市や生地である大分県竹田市の協力を得て2003年6月29日の命日に建立されたことを知りました。

今回のベルリン公演に際し、ライプツィヒに行って是非この記念碑に手をあわせたいというのが私の旅行目的の一つでした。但し、この記念碑に辿りつくまで、生来の方向音痴である私には困難が付きまといましたが、幸いにもホテルのフロント係の女性が一生懸命地図で探してくれ、加えて旅慣れた小田原のSさんが同行してくれたので思いのほか短時間で行くことができました。この記念碑の周辺はちょうど上野の国立博物館から芸大周辺に似た雰囲気で人通りも少なく落ち着いた佇まいの街並みでした。記念碑には、上部に彼のレリーフが、下部には日本語で「日本で敬愛されている作曲家、滝廉太郎(18791903)は1901年から1902年の間、フェルディナンド・ローデ通り7番に住み、ライプツィヒ音楽院で学んだ。短い一生の中で数々の名曲を残し日本の近代音楽の扉を開いた業績は永遠に輝き続ける」と刻まれ、その下にドイツ語で同文が刻まれていました。この地に100年以上前、日本人留学生がただ一人病に罹り住んでいたと思うと感慨深いものがあります。それだけに日本人の私にはライプツィヒの人達の気持ちが大変うれしく、西行の「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌の心境でした。このことを後日ベルリンで茅ヶ崎のKさんご夫妻に話したところ、「ベルリンの後、ライプツィヒに行くのでぜひ寄ってみたい」とのことでした。記念碑自体は、とりたててどうこう言えるものではありませんが、建立の経緯、滝廉太郎とライプツィヒ市民の想いを考えると多くの日本人に行ってほしい場所です。

滝廉太郎については、去年NHKで放送された「坂の上の雲」の中で、広瀬少佐がロシア駐在を解かれる帰国前の送別の宴でロシアの友人がヴァイオリンとピアノの伴奏でゆったりと弾き出され切々と歌われた「荒城の月」は、「これぞ日本の名曲」といえるものでした。聴いていたロシアの婦人が「日本人にこんな曲が創れるはずがない。西洋人のものまねだ。」といって会場を退出したシーンは印象的でした。「荒城の月」は日本では最近演奏される機会が少ないように思えますが、海外のコンサートではヴァイオリンで演奏される機会が増えているそうです。日本の名曲として永く歌い継がれるべき曲です。

またライプツィッヒは、バッハとともにメンデルスゾーンにとってもゆかりの地です。 彼は、ユダヤ人であったためにナチスによって彼に関する書物は破棄されてしまい不明な点が多く評価は必ずしも高くありませんが、作曲のみならずバッハの死後80年経って「マタイ受難曲」を発見、その音楽的価値を当時ただ一人認識して周囲の反対を押し切って初演し世に広めました。つまり、メンデルスゾーンがいなければ「マタイ受難曲」は現在も存在しなかったことになります。加えてライプツィヒ音楽院を創設し後世に大きな影響を与えた功績はもっと評価されるべきではないかと思います。この点から、多少こじつけになりますが、音楽的な面は別にしてライプツィヒ音楽院に学んだ滝廉太郎はメンデルスゾーンを経 由してバッハ→メンデルスゾーン→滝廉太郎 という縁で結ばれているように私には思えました。ライプツィヒとベルリンで地元の人に「日本から来た」というと返ってきた言葉はいずれも「マサアキ スズキ」(鈴木雅明さん)でした。私はてっきり小澤征爾さんとばかり考えていましたので意外でした。日本人でドイツ人以上にバッハを理解し演奏する鈴木雅明さんに対する尊敬の念は相当なものでした。ドイツ人のバッハに対する思い入れは私が想像できないほど深いもののようです。

バッハについては、ベルリン公演で「主よ、人の望みの喜びよ」を歌いましたが、私は「第九」のみの申込みにもかかわらず、第1回の練習で受付にいた亥年生まれの強引な小川さんに「日本の歌、ドイツの歌もやりなさい」と強制的に練習代金を徴収され歌うことになりました。この曲は学生時代に友人に教えられディヌ・リパッティのピアノでよく聴いていましたが、まさか自分がこの曲を歌うとは思いもしませんでした。ピアノを聴くだけとは違ってやはりバッハを歌うのは難しいとおもいましたが良い経験をさせてもらいました。

ライプツィヒは、この他ゲーテにもゆかりがある等じっくり歩いてみたい町です。機会があれば再訪してみたい素敵な町でした。

なお、この「滝廉太郎記念碑」建立の詳細については、海老沢敏著「滝廉太郎」(岩波新書)に記されていますので興味のある方はご覧になって下さい。       

2.ニュルンベルグの「タンホイザー」と強烈なしっぺ返し

ベルリン公演のあと、私たちのグループはドレスデンからニュルンベルグへ向かいました。ドレスデンでは、今回の旅行の目的のひとつでしたゼンパーオーパーでのコンサートは既に売切れで、当日券を購入するため開演直前までSさんとチケット売り場に並びましたが、長い行列で入手できませんでした。ゼンパーへ行くのにホテルを出て市電に乗るときに熊本のMさんから「ダフ屋から法外な高値でチケットを買わされないようにね」と忠告をうけましたが、結果的に被害はありませんでした。Mさんとは、その後バイロイトへ向かう途中、休憩で立ち寄ったドライブインの土産物売り場でかわいいクッションを買おうかどうか迷っているMさんに、私が「どうしたのですか?」と声をかけたところ、Mさんは「孫にどうかと思って。でも、この頃ませてきてかわいくないの」というので私がすかさず「しようがないでしょ。おばあちゃん(Mさん)に似たんでしょうから」と憎まれ口をたたいたところ、この後とんでもないしっぺ返しが待ちうけていました。

ニュルンベルグのホテルへ夕方に着き、近くに市立歌劇場があるというのでSさんと今日のチケットを買っておこうと午後5時過ぎに早速でかけました。行ってみると、今日はなんと私の大好きな「タンホイザー」なのです。本場ドイツで「タンホイザー」を聴けるなんて「運がいいな」と喜びも束の間、今日は5時開演でチケット売り場は既にクローズしていて買えないのです。ガラスのドア越しに歌劇場の人に何とか入れないか頼んでみましたが、埒があきません。ちょうど序曲が終わってヴェヌスヴェルグの音楽が微かに聴こえてきます。「タンホイザー」の第2幕4場の「歌の殿堂を讃えよう」(大行進曲)は私の最も好きな曲の一つでいつも元気と勇気を与えてくれるので私は「ここまで来て聴けないなんて,なんとかならないか」と粘ってみましたが、どうにもなりませんでした。しかたなくあきらめてホテルに戻り、ドイツ最後の夜ということで皆で食事にでかけましたが、歌劇場の前を通って行くので建物を横目に見ながら未練たらたらです。食事が終わり帰りにまた前を通ったら幕間で聴衆が建物前の広場にでてシャンパングラスを片手に談笑しているのです。「タンホイザー」が良かったのが嫌でも伝わっ              てきます。私は居ても経ってもいられず、語学が堪能で恰幅がよく押しが強いTさんを引っ張っていき

「明日、日本に帰るので何とかならないか?」と再アタックしてもらいましたが、「今はチケットを買おうと思えば、インターネットでも買える」とのことで拒否され希望は叶いませんでした。計画性のない私は、これまで行き当たりばったりで海外ではいつも当日券を買っていました。ウィーンでは多くのコンサートホールや歌劇場があるので当日でも全く行けないということはありませんでしたが、これからは考えなおしたいと思います。こうして「タンホイザー」を聴くことは叶いませんでしたが、ベルリン公演や旅の疲れもあってその夜はぐっすり眠りました。

そして翌日、朝食をとっていると、突然Mさんが私の前にやってきて「丸さん、私昨日オペラをみてきましたの。」と申し訳なさそうに言うのです。私は絶句して食べ物を喉に詰まらせそうになり「まさか、『タンホイザー』ではないですよね」と聞くとそのまさかで、Mさんは「ええ、『タンホイザー』を聴いてきました。とってもよかったですよ。丸さんにも聴かせてあげたかったわ。」と、こちらが一番気に障ることを平気で言うのです。しかも、尼崎のNさんの知人が歌劇場オーケストラのトロンボーン奏者で、幸運にもその人は昨日の出番が後半なので会えたうえに是非聴いて行くようにと席を用意してくれMさんと二人で最後まで聴けたのだそうです。私は、Mさんの人柄はよく承知していますので申し訳なそうに言っているのはわかりますが、この時ばかりはMさんが年長の「意地悪ばあさん」にみえました。

ドイツ滞在最後の日、フランクフルトへ向かう途中の昼食後、この「幸運な女性2人と不運な男性2人」で記念写真をとりました。忘れられない写真の一枚です。帰国後Nさんが、ニュルンベルグ歌劇場での「タンホイザー」終演後、歌劇場内のレストランでMさんとドイツ人のトロンボーン奏者ブショアさんと3人で一緒に会食した時の写真を送ってくれ、「突然の幸運に恵まれて幸せな時間をすごしました。2人ともいい顔してるでしょ。」との添書きに私はSさんと地団駄を踏んで悔しがり、いつかウィーンかザルツブルグで私の一番好きな『モーツァルトのピアノ協奏曲第27番K.595 』を聴いてリベンジをしようと誓いました。

このように「ドイツの風」は私にとって必ずしも心地よい風ばかりではありませんでしたが、思い出多い心に残る旅でした。

3.横島先生の「第九」

ベルリン公演では、横島先生が日本人指揮者として初めて「国境なき合唱団」の指揮台にたたれました。横島先生には、日本での最後の練習で「テノールはすばらしい」と褒めていただきこれまで褒められたことのない私(実際には私ではなくパートが褒められたのですが)は有頂天になり、練習後の飲み会では調子に乗って先生に「再度褒めて下さい」とお願いしたところ快く了解いただき、うるさい我が家の女たちに聞かせるために練習用に持っていたICレコーダーに録音させてもらいました。

家に帰って家内に水戸黄門の助さん・格さんのごとくICレコーダーを印籠代わりに「これが聞こえぬか!」とかざしましたが、肝心の「テノールはすばらしい」の部分が録音されておらず先生の「奥様も一緒に『第九』を歌いましょう」という声が飲み会の喧騒と嬌声とともに入っているのみでした。呆れた家内曰く「先生に褒め言葉を強要する弟子がどこにいるの。だいたい指揮者がこんなダミ声なわけはない。どうせ安い居酒屋で意気投合した見知らぬ酔っ払い同士でしょ。」横島先生、大変申し訳ありませんが、我が家では先生はこのように呼ばれています。

本番では、先生とは練習以外でも十分コミュニケーションをとらせていただいたことや髪を掻きわけ掻きわけての熱演が私にも乗り移ったせいか、これまで一度もでなかった高音部も声がでるなど今までで最高の出来でした。初参加の若いHOさんは感激して大泣きしていました。横島先生は、褒め上手で人を乗せるのがうまく一言でいえば「美点凝視」の人で私にはピッタリの指揮者です。

 

本番後の打ち上げは、毎度のことながら大変な盛り上がり様で、私は座る席を間違えてしまい一番騒々しいグループの席に座ってしまいました。横島先生は、私たちの前のテーブルまではにこやかに記念写真を撮っていましたが、私たちのテーブルではあまりの盛り上がりに一瞬先生の顔が引きつったようで早々に次のテーブルへいかれました。打ち上げの最後にみんなで歌った「さくら、さくら」や「ベルリンの風」は忘れられません。

なお、本番前の練習で佐藤先生が授けてくれた「居眠り防止策」は、シンガポールで前科のある私とSさん用のアドバイスかと思いましたが、どうやらウィーンでも居眠りしていた猛者(殆どは猛女だそうです)もいたようで効果は絶大でした。

打ち上げの後、横島先生の食事に佐藤先生、原先生、メゾ・ソプラノの日野妙果さんや合唱団のみなさんとお伴させていただきました。横島先生は、演奏会での研ぎ澄まされた神経と高揚した気持ちをほぐしその日の演奏を振り返って次の構想を練るためか本番後は夜明けまでかけてゆっくり食事をとるのだそうです。芸術家の想いや考えを生で聞くことができ貴重な体験をすることができました。この時に私が「次回も横島先生と日野さんでやれたらいいですね。」と言ったことがプラハでも実現しうれしく思います。

 

4.王野さん、実行委員のみなさん、べしさんありがとうございました。

ベルリン公演は「国境なき合唱団」が創設以来の困難に直面しましたが、王野さんはじめ実行委員のみなさんが公演成立までの参加者募集から練習会場の確保、パンフレット作成、DM発送まで何から何まで手作りで大変なご努力をいただき実現しました。佐藤先生と原先生、kntの仲田さんのご支援も得てウィーンやシンガポールに勝るとも劣らないすばらしい公演となりました。今振返ってみても実行委員の方々のご苦労は並大抵のことではなく、それだけにベルリン公演が成功裏に終了し感慨もひとしおではないかと思われます。公演後の横島先生の食事に付き合った王野さんは精根を使いはたしたというくらいの疲れようでしたが、それでも痩せなかったとのこと。これくらい図太くなくては実行委員長はつとまりません。実行委員の皆さん、今後も健康に留意して合唱団を束ねて下さい。

合唱団は、10年続くかどうかが一つのハードルと言われています。34年であれば勢いでできるけれども10年となると団員一人ひとりの努力がないと続かないそうです。「国境なき合唱団」の平均年齢はわかりませんが、同じメンバーであれば、ウィーンから5歳平均年齢が上がっていずれ高齢者合唱団になってしまいます。幸い前回は、口では「新参者」といいながら態度は「最古参」の大変賑やかな浦安のTさん、恐い寅年のお母さんに無理やり参加させられたにも拘らず一番感激したHちゃんとお嫁さんだけでなくお義母さんにも尻に敷かれているかわいそうなYちゃんの若夫婦、初めての「第九」で入れ込み過ぎて本番が終わるまで仕事が手につかなかった仙台のMさんご夫妻、うらやましい位仲の良い茅ヶ崎のKさんご夫妻と奈良のOさん父娘等々新しい仲間も増えました。一人一人ができることを地道に取り組み、是非この合唱団を長く続けたいものです。

それから、コニたん、1冊の本になりそうな位たくさんの情報ありがとう。方向音痴の私には大変役立ちました。また、ベルリンへ行けなかった岩田さん、実現に向けいろいろな面でご尽力いただき有難うございました。べしさん、ベルリンでは案内していただき大変お世話になりました。草鞋2足分はあろうかという巨大なシュニッツェルを食べさせられ辟易していたところへ和食店を紹介いただき助かりました。また、ベルリン国立歌劇場が大改修で3年間閉鎖するので観ておいたほうが良いとベシさんに薦められ「サロメ」をみましたが殆ど居眠りをしていました。申し訳ありません。後でIさんに「男が『サロメ』で居眠りしているなんて信じられない。」と揶揄されました。

この他、ブランデンブルグ門で歌った「第九」「そーらん節」は気持ちよかったですね。実行委員のみなさん多くの良い思い出をありがとうございました。

                                       ***

今回のタイトルとはかけ離れますが、どうしても触れないわけにはいきません。東日本大震災や福島第一原発で被災された方々には心からお見舞申し上げるとともに一日も早く落ち着いた生活を取り戻せることを切に願っています。

東北については、私は奥入瀬の渓流散策が好きで朝656分東京駅発の「はやて」でよく行っていました。行き帰りに各地に寄り陸前 高田、気仙沼、遠野、八戸等東北には日本の原風景ともいうべきところが多くあります。それだけに復興を願わずにはいられません。

私事ですが、今回の大震災で仙台にいる娘夫婦と孫が被災しました。311日の夜は雪が降りとても寒かったそうです。出先から着 の身着のままで避難所へ行った娘は支給された一人一枚の毛布で自分の毛布を半分孫にも巻いて寒さを忍んでいたところ、毛布を2枚 持っているという親切な地元の人が「赤ちゃんを風邪ひかせないようにね」と1枚分けてくれ、おかげで孫は風邪も引かずにすみまし た。当夜は毛布2枚でも耐えられるかという寒さにも拘らずご自分の毛布を1枚分けていただき、ニュース等で伝えられる東北の人達の 親切、思いやり、礼儀正しさを娘と孫は身をもって知りました。

東北を代表する花に「コブシの花」があります。春を告げる清楚な花で、東北地方では「田打ち桜」と呼ばれ特別な意味を持つ花だ そうです。千昌夫さんが歌う「北国の春」にも「こぶし咲くあの丘北国の—-」と歌われています。今年の春、コブシの花は北風に向かって悲しみに耐えているようでした。しかし、どんなに困難な状況であっても音楽は「生きる  力」を与えてくれます。来春のコブシの花が咲くころには復興に向け「第九」の歌声が東北各地で高らかに響きわたることを願わずに はいられません。

私の考える復興へのキーワードは、1.「不撓不屈」(絶対に負けない心), 2.「ともに生きる」(家族や友人、ペット、趣味など何 かと一緒に)、3.「復活」(東北の人達がもつ忍耐強さ、純朴さ、思いやり、礼節等により過去の大災害から何度も立ち上がった)3つです。どんなに不運に見舞われても、不幸になってはいけません。幸・不幸は心の持ち方一つです。東北のみなさんには、是 非この困難を乗り越えてほしいと思います。

長くなりましたが、最後にプラハ公演に向けてワンポイントアドバイスです。「おまえにだけは言われたくない」という人が殆どで しょうが、私ができる唯一のアドバイスは「笑顔を忘れずに」ということです。佐藤先生も練習で度々指摘されているように笑顔があ るかないかで声の表情が全く違うそうです。これが出来そうでなかなか出来ませんので是非本番では想い出して下さい。プラハでは困 難な状況にあってもくじけない日本の「国境なき合唱団」の心意気を示して下さい。

もっとも、先生から「そんなことを言う前に飲み会だけでなくちゃんと練習に出なさい。」と叱られそうですが。

国境なき合唱団は、佐藤先生の人柄もありアットホームで毎年2~3ヶ月の練習がは

じまると実家に帰ったような安らぎを感じます。先生によれば、プラハはすばらしい街だそうです。プラハ公演の成功とみなさんが心に残る旅となることを願っています。

次回は必ず参加したいと思います。ありがとうございました。

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