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「国境なき合唱団」のみなさん、お変わりありませんでしょうか。ことに東北地方のみなさんは大地震、大津波に加え原発事故と国難ともいうべき事態にもかかわらず多くの方々が復興にむけ諸活動を精力的に取組まれていることと思います。

このような中、プラハ公演まで1ヶ月足らずとなり練習も後半に入りGWには仙台や福島のみなさんも参加され元気な姿を見せて熱を帯びてきました。私にとって「国境なき合唱団」のこれまでのウィーン、シンガポール、ベルリン講演はいずれも心に残るコンサートであり、旅でした。残念ながら私は今回所用で参加できませんが、練習で多くの懐かしい方々とお会いしてプラハ公演を前に前回のベルリン公演とドイツの旅について記憶を辿りながら振り返ってみました。

1.ライプツィヒと滝廉太郎

ドイツ東部の古都「ライプツィヒ」といえば、聖トーマス教会に代表されるバッハの聖地ですが、この古都が「滝廉太郎」にとってもゆかりの地であることを知ったのは、5年ほど前、上野の旧奏楽堂で行われた「アンサンブル of トウキョウ」の定期演奏会での金昌国先生の話でした。このアンサンブルの演奏会は、金先生がユーモアを交えわかりやすく解説をしてくれるので私は毎回楽しみにしているのですが、この中で金先生は滝廉太郎について次のように話されました。

滝廉太郎は、21歳でライプツィヒ音楽院に留学したが、肺結核に罹り1年半で帰国を余儀なくされ、わずか23歳の若さで亡くなった。

②その短い生涯のなかで「荒城の月」「花」等多くの名曲をのこした。

③私自身も若いころ結核に罹ったがペニシリンのおかげで生き延びた。可能であれば入れ替わりたいぐらいの惜しい才能であった。

④滝廉太郎がせめてモーツァルト(37歳)ぐらい長生きしていたら音楽の歴史も大きく変わっていただろう。事実、同時期にライプツィヒ音楽院に学んでいたブラームスより成績がよかったという声もあった。

⑤志半ばで病に倒れ音楽に対する思いのたけを表した滝廉太郎最後のピアノ曲「憾」(うらみ)は日本人が誇れる素晴らしい曲であり多くの人に知ってほしい。

このピアノ曲「憾」はアンコールで演奏され、金先生の解説のとおり「こんなすばらしい曲があったのか」と驚くとともに私にとって心に残るコンサートでした。コンサート以降、この曲は私のウォークマンに深沢亮子さんのピアノでショパンやメンデルスゾーンの曲の間に収録されていますが、全く違和感がなく知らない人が聴いたらショパンの曲と間違えてもおかしくないすばらしい曲です。是非一度聴いてみて下さい。

そして後日、近くの図書館でふと手にした滝廉太郎に関する本の中で、国際メンデルスゾーン基金などがライプツィヒで彼が下宿していた場所に記念碑建立を計画し、ライプツィヒ市や生地である大分県竹田市の協力を得て2003年6月29日の命日に建立されたことを知りました。

今回のベルリン公演に際し、ライプツィヒに行って是非この記念碑に手をあわせたいというのが私の旅行目的の一つでした。但し、この記念碑に辿りつくまで、生来の方向音痴である私には困難が付きまといましたが、幸いにもホテルのフロント係の女性が一生懸命地図で探してくれ、加えて旅慣れた小田原のSさんが同行してくれたので思いのほか短時間で行くことができました。この記念碑の周辺はちょうど上野の国立博物館から芸大周辺に似た雰囲気で人通りも少なく落ち着いた佇まいの街並みでした。記念碑には、上部に彼のレリーフが、下部には日本語で「日本で敬愛されている作曲家、滝廉太郎(18791903)は1901年から1902年の間、フェルディナンド・ローデ通り7番に住み、ライプツィヒ音楽院で学んだ。短い一生の中で数々の名曲を残し日本の近代音楽の扉を開いた業績は永遠に輝き続ける」と刻まれ、その下にドイツ語で同文が刻まれていました。この地に100年以上前、日本人留学生がただ一人病に罹り住んでいたと思うと感慨深いものがあります。それだけに日本人の私にはライプツィヒの人達の気持ちが大変うれしく、西行の「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌の心境でした。このことを後日ベルリンで茅ヶ崎のKさんご夫妻に話したところ、「ベルリンの後、ライプツィヒに行くのでぜひ寄ってみたい」とのことでした。記念碑自体は、とりたててどうこう言えるものではありませんが、建立の経緯、滝廉太郎とライプツィヒ市民の想いを考えると多くの日本人に行ってほしい場所です。

滝廉太郎については、去年NHKで放送された「坂の上の雲」の中で、広瀬少佐がロシア駐在を解かれる帰国前の送別の宴でロシアの友人がヴァイオリンとピアノの伴奏でゆったりと弾き出され切々と歌われた「荒城の月」は、「これぞ日本の名曲」といえるものでした。聴いていたロシアの婦人が「日本人にこんな曲が創れるはずがない。西洋人のものまねだ。」といって会場を退出したシーンは印象的でした。「荒城の月」は日本では最近演奏される機会が少ないように思えますが、海外のコンサートではヴァイオリンで演奏される機会が増えているそうです。日本の名曲として永く歌い継がれるべき曲です。

またライプツィッヒは、バッハとともにメンデルスゾーンにとってもゆかりの地です。 彼は、ユダヤ人であったためにナチスによって彼に関する書物は破棄されてしまい不明な点が多く評価は必ずしも高くありませんが、作曲のみならずバッハの死後80年経って「マタイ受難曲」を発見、その音楽的価値を当時ただ一人認識して周囲の反対を押し切って初演し世に広めました。つまり、メンデルスゾーンがいなければ「マタイ受難曲」は現在も存在しなかったことになります。加えてライプツィヒ音楽院を創設し後世に大きな影響を与えた功績はもっと評価されるべきではないかと思います。この点から、多少こじつけになりますが、音楽的な面は別にしてライプツィヒ音楽院に学んだ滝廉太郎はメンデルスゾーンを経 由してバッハ→メンデルスゾーン→滝廉太郎 という縁で結ばれているように私には思えました。ライプツィヒとベルリンで地元の人に「日本から来た」というと返ってきた言葉はいずれも「マサアキ スズキ」(鈴木雅明さん)でした。私はてっきり小澤征爾さんとばかり考えていましたので意外でした。日本人でドイツ人以上にバッハを理解し演奏する鈴木雅明さんに対する尊敬の念は相当なものでした。ドイツ人のバッハに対する思い入れは私が想像できないほど深いもののようです。

バッハについては、ベルリン公演で「主よ、人の望みの喜びよ」を歌いましたが、私は「第九」のみの申込みにもかかわらず、第1回の練習で受付にいた亥年生まれの強引な小川さんに「日本の歌、ドイツの歌もやりなさい」と強制的に練習代金を徴収され歌うことになりました。この曲は学生時代に友人に教えられディヌ・リパッティのピアノでよく聴いていましたが、まさか自分がこの曲を歌うとは思いもしませんでした。ピアノを聴くだけとは違ってやはりバッハを歌うのは難しいとおもいましたが良い経験をさせてもらいました。

ライプツィヒは、この他ゲーテにもゆかりがある等じっくり歩いてみたい町です。機会があれば再訪してみたい素敵な町でした。

なお、この「滝廉太郎記念碑」建立の詳細については、海老沢敏著「滝廉太郎」(岩波新書)に記されていますので興味のある方はご覧になって下さい。       

2.ニュルンベルグの「タンホイザー」と強烈なしっぺ返し

ベルリン公演のあと、私たちのグループはドレスデンからニュルンベルグへ向かいました。ドレスデンでは、今回の旅行の目的のひとつでしたゼンパーオーパーでのコンサートは既に売切れで、当日券を購入するため開演直前までSさんとチケット売り場に並びましたが、長い行列で入手できませんでした。ゼンパーへ行くのにホテルを出て市電に乗るときに熊本のMさんから「ダフ屋から法外な高値でチケットを買わされないようにね」と忠告をうけましたが、結果的に被害はありませんでした。Mさんとは、その後バイロイトへ向かう途中、休憩で立ち寄ったドライブインの土産物売り場でかわいいクッションを買おうかどうか迷っているMさんに、私が「どうしたのですか?」と声をかけたところ、Mさんは「孫にどうかと思って。でも、この頃ませてきてかわいくないの」というので私がすかさず「しようがないでしょ。おばあちゃん(Mさん)に似たんでしょうから」と憎まれ口をたたいたところ、この後とんでもないしっぺ返しが待ちうけていました。

ニュルンベルグのホテルへ夕方に着き、近くに市立歌劇場があるというのでSさんと今日のチケットを買っておこうと午後5時過ぎに早速でかけました。行ってみると、今日はなんと私の大好きな「タンホイザー」なのです。本場ドイツで「タンホイザー」を聴けるなんて「運がいいな」と喜びも束の間、今日は5時開演でチケット売り場は既にクローズしていて買えないのです。ガラスのドア越しに歌劇場の人に何とか入れないか頼んでみましたが、埒があきません。ちょうど序曲が終わってヴェヌスヴェルグの音楽が微かに聴こえてきます。「タンホイザー」の第2幕4場の「歌の殿堂を讃えよう」(大行進曲)は私の最も好きな曲の一つでいつも元気と勇気を与えてくれるので私は「ここまで来て聴けないなんて,なんとかならないか」と粘ってみましたが、どうにもなりませんでした。しかたなくあきらめてホテルに戻り、ドイツ最後の夜ということで皆で食事にでかけましたが、歌劇場の前を通って行くので建物を横目に見ながら未練たらたらです。食事が終わり帰りにまた前を通ったら幕間で聴衆が建物前の広場にでてシャンパングラスを片手に談笑しているのです。「タンホイザー」が良かったのが嫌でも伝わっ              てきます。私は居ても経ってもいられず、語学が堪能で恰幅がよく押しが強いTさんを引っ張っていき

「明日、日本に帰るので何とかならないか?」と再アタックしてもらいましたが、「今はチケットを買おうと思えば、インターネットでも買える」とのことで拒否され希望は叶いませんでした。計画性のない私は、これまで行き当たりばったりで海外ではいつも当日券を買っていました。ウィーンでは多くのコンサートホールや歌劇場があるので当日でも全く行けないということはありませんでしたが、これからは考えなおしたいと思います。こうして「タンホイザー」を聴くことは叶いませんでしたが、ベルリン公演や旅の疲れもあってその夜はぐっすり眠りました。

そして翌日、朝食をとっていると、突然Mさんが私の前にやってきて「丸さん、私昨日オペラをみてきましたの。」と申し訳なさそうに言うのです。私は絶句して食べ物を喉に詰まらせそうになり「まさか、『タンホイザー』ではないですよね」と聞くとそのまさかで、Mさんは「ええ、『タンホイザー』を聴いてきました。とってもよかったですよ。丸さんにも聴かせてあげたかったわ。」と、こちらが一番気に障ることを平気で言うのです。しかも、尼崎のNさんの知人が歌劇場オーケストラのトロンボーン奏者で、幸運にもその人は昨日の出番が後半なので会えたうえに是非聴いて行くようにと席を用意してくれMさんと二人で最後まで聴けたのだそうです。私は、Mさんの人柄はよく承知していますので申し訳なそうに言っているのはわかりますが、この時ばかりはMさんが年長の「意地悪ばあさん」にみえました。

ドイツ滞在最後の日、フランクフルトへ向かう途中の昼食後、この「幸運な女性2人と不運な男性2人」で記念写真をとりました。忘れられない写真の一枚です。帰国後Nさんが、ニュルンベルグ歌劇場での「タンホイザー」終演後、歌劇場内のレストランでMさんとドイツ人のトロンボーン奏者ブショアさんと3人で一緒に会食した時の写真を送ってくれ、「突然の幸運に恵まれて幸せな時間をすごしました。2人ともいい顔してるでしょ。」との添書きに私はSさんと地団駄を踏んで悔しがり、いつかウィーンかザルツブルグで私の一番好きな『モーツァルトのピアノ協奏曲第27番K.595 』を聴いてリベンジをしようと誓いました。

このように「ドイツの風」は私にとって必ずしも心地よい風ばかりではありませんでしたが、思い出多い心に残る旅でした。

3.横島先生の「第九」

ベルリン公演では、横島先生が日本人指揮者として初めて「国境なき合唱団」の指揮台にたたれました。横島先生には、日本での最後の練習で「テノールはすばらしい」と褒めていただきこれまで褒められたことのない私(実際には私ではなくパートが褒められたのですが)は有頂天になり、練習後の飲み会では調子に乗って先生に「再度褒めて下さい」とお願いしたところ快く了解いただき、うるさい我が家の女たちに聞かせるために練習用に持っていたICレコーダーに録音させてもらいました。

家に帰って家内に水戸黄門の助さん・格さんのごとくICレコーダーを印籠代わりに「これが聞こえぬか!」とかざしましたが、肝心の「テノールはすばらしい」の部分が録音されておらず先生の「奥様も一緒に『第九』を歌いましょう」という声が飲み会の喧騒と嬌声とともに入っているのみでした。呆れた家内曰く「先生に褒め言葉を強要する弟子がどこにいるの。だいたい指揮者がこんなダミ声なわけはない。どうせ安い居酒屋で意気投合した見知らぬ酔っ払い同士でしょ。」横島先生、大変申し訳ありませんが、我が家では先生はこのように呼ばれています。

本番では、先生とは練習以外でも十分コミュニケーションをとらせていただいたことや髪を掻きわけ掻きわけての熱演が私にも乗り移ったせいか、これまで一度もでなかった高音部も声がでるなど今までで最高の出来でした。初参加の若いHOさんは感激して大泣きしていました。横島先生は、褒め上手で人を乗せるのがうまく一言でいえば「美点凝視」の人で私にはピッタリの指揮者です。

本番後の打ち上げは、毎度のことながら大変な盛り上がり様で、私は座る席を間違えてしまい一番騒々しいグループの席に座ってしまいました。横島先生は、私たちの前のテーブルまではにこやかに記念写真を撮っていましたが、私たちのテーブルではあまりの盛り上がりに一瞬先生の顔が引きつったようで早々に次のテーブルへいかれました。打ち上げの最後にみんなで歌った「さくら、さくら」や「ベルリンの風」は忘れられません。

なお、本番前の練習で佐藤先生が授けてくれた「居眠り防止策」は、シンガポールで前科のある私とSさん用のアドバイスかと思いましたが、どうやらウィーンでも居眠りしていた猛者(殆どは猛女だそうです)もいたようで効果は絶大でした。

打ち上げの後、横島先生の食事に佐藤先生、原先生、メゾ・ソプラノの日野妙果さんや合唱団のみなさんとお伴させていただきました。横島先生は、演奏会での研ぎ澄まされた神経と高揚した気持ちをほぐしその日の演奏を振り返って次の構想を練るためか本番後は夜明けまでかけてゆっくり食事をとるのだそうです。芸術家の想いや考えを生で聞くことができ貴重な体験をすることができました。この時に私が「次回も横島先生と日野さんでやれたらいいですね。」と言ったことがプラハでも実現しうれしく思います。


4.王野さん、実行委員のみなさん、べしさんありがとうございました。

ベルリン公演は「国境なき合唱団」が創設以来の困難に直面しましたが、王野さんはじめ実行委員のみなさんが公演成立までの参加者募集から練習会場の確保、パンフレット作成、DM発送まで何から何まで手作りで大変なご努力をいただき実現しました。佐藤先生と原先生、kntの仲田さんのご支援も得てウィーンやシンガポールに勝るとも劣らないすばらしい公演となりました。今振返ってみても実行委員の方々のご苦労は並大抵のことではなく、それだけにベルリン公演が成功裏に終了し感慨もひとしおではないかと思われます。公演後の横島先生の食事に付き合った王野さんは精根を使いはたしたというくらいの疲れようでしたが、それでも痩せなかったとのこと。これくらい図太くなくては実行委員長はつとまりません。実行委員の皆さん、今後も健康に留意して合唱団を束ねて下さい。

合唱団は、10年続くかどうかが一つのハードルと言われています。34年であれば勢いでできるけれども10年となると団員一人ひとりの努力がないと続かないそうです。「国境なき合唱団」の平均年齢はわかりませんが、同じメンバーであれば、ウィーンから5歳平均年齢が上がっていずれ高齢者合唱団になってしまいます。幸い前回は、口では「新参者」といいながら態度は「最古参」の大変賑やかな浦安のTさん、恐い寅年のお母さんに無理やり参加させられたにも拘らず一番感激したHちゃんとお嫁さんだけでなくお義母さんにも尻に敷かれているかわいそうなYちゃんの若夫婦、初めての「第九」で入れ込み過ぎて本番が終わるまで仕事が手につかなかった仙台のMさんご夫妻、うらやましい位仲の良い茅ヶ崎のKさんご夫妻と奈良のOさん父娘等々新しい仲間も増えました。一人一人ができることを地道に取り組み、是非この合唱団を長く続けたいものです。

それから、コニたん、1冊の本になりそうな位たくさんの情報ありがとう。方向音痴の私には大変役立ちました。また、ベルリンへ行けなかった岩田さん、実現に向けいろいろな面でご尽力いただき有難うございました。べしさん、ベルリンでは案内していただき大変お世話になりました。草鞋2足分はあろうかという巨大なシュニッツェルを食べさせられ辟易していたところへ和食店を紹介いただき助かりました。また、ベルリン国立歌劇場が大改修で3年間閉鎖するので観ておいたほうが良いとベシさんに薦められ「サロメ」をみましたが殆ど居眠りをしていました。申し訳ありません。後でIさんに「男が『サロメ』で居眠りしているなんて信じられない。」と揶揄されました。

この他、ブランデンブルグ門で歌った「第九」「そーらん節」は気持ちよかったですね。実行委員のみなさん多くの良い思い出をありがとうございました。

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今回のタイトルとはかけ離れますが、どうしても触れないわけにはいきません。東日本大震災や福島第一原発で被災された方々には心からお見舞申し上げるとともに一日も早く落ち着いた生活を取り戻せることを切に願っています。

東北については、私は奥入瀬の渓流散策が好きで朝656分東京駅発の「はやて」でよく行っていました。行き帰りに各地に寄り陸前 高田、気仙沼、遠野、八戸等東北には日本の原風景ともいうべきところが多くあります。それだけに復興を願わずにはいられません。

私事ですが、今回の大震災で仙台にいる娘夫婦と孫が被災しました。311日の夜は雪が降りとても寒かったそうです。出先から着 の身着のままで避難所へ行った娘は支給された一人一枚の毛布で自分の毛布を半分孫にも巻いて寒さを忍んでいたところ、毛布を2枚 持っているという親切な地元の人が「赤ちゃんを風邪ひかせないようにね」と1枚分けてくれ、おかげで孫は風邪も引かずにすみまし た。当夜は毛布2枚でも耐えられるかという寒さにも拘らずご自分の毛布を1枚分けていただき、ニュース等で伝えられる東北の人達の 親切、思いやり、礼儀正しさを娘と孫は身をもって知りました。

東北を代表する花に「コブシの花」があります。春を告げる清楚な花で、東北地方では「田打ち桜」と呼ばれ特別な意味を持つ花だ そうです。千昌夫さんが歌う「北国の春」にも「こぶし咲くあの丘北国の—-」と歌われています。今年の春、コブシの花は北風に向かって悲しみに耐えているようでした。しかし、どんなに困難な状況であっても音楽は「生きる  力」を与えてくれます。来春のコブシの花が咲くころには復興に向け「第九」の歌声が東北各地で高らかに響きわたることを願わずに はいられません。

私の考える復興へのキーワードは、1.「不撓不屈」(絶対に負けない心), 2.「ともに生きる」(家族や友人、ペット、趣味など何 かと一緒に)、3.「復活」(東北の人達がもつ忍耐強さ、純朴さ、思いやり、礼節等により過去の大災害から何度も立ち上がった)3つです。どんなに不運に見舞われても、不幸になってはいけません。幸・不幸は心の持ち方一つです。東北のみなさんには、是 非この困難を乗り越えてほしいと思います。

長くなりましたが、最後にプラハ公演に向けてワンポイントアドバイスです。「おまえにだけは言われたくない」という人が殆どで しょうが、私ができる唯一のアドバイスは「笑顔を忘れずに」ということです。佐藤先生も練習で度々指摘されているように笑顔があ るかないかで声の表情が全く違うそうです。これが出来そうでなかなか出来ませんので是非本番では想い出して下さい。プラハでは困 難な状況にあってもくじけない日本の「国境なき合唱団」の心意気を示して下さい。

もっとも、先生から「そんなことを言う前に飲み会だけでなくちゃんと練習に出なさい。」と叱られそうですが。

国境なき合唱団は、佐藤先生の人柄もありアットホームで毎年2~3ヶ月の練習がは

じまると実家に帰ったような安らぎを感じます。先生によれば、プラハはすばらしい街だそうです。プラハ公演の成功とみなさんが心に残る旅となることを願っています。

次回は必ず参加したいと思います。ありがとうございました。

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