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皆様、こんにちは。こにでございます。今年のチャリティコンサートツアーは、世界の子供たちの為のチャリティーを募るという目的と共に、ベルリンの壁崩壊20周年を祝うという趣旨があります。

 
そこで、ここらでベルリンの壁崩壊の歴史的意義をおさらいしておくのも悪くないかなと思い、「こにめも」3回目の今日は、ベルリンの壁の話をしたいと思います。ブラームスの「大学祝典序曲」など流しながらお読みください(笑)。
 
## 尚、最初にお断りしておきますが、この投稿で使う図版や写真は、すべてウィキメディア・
## コモンズで公開されているフリーユースのものばかりです。念の為。
  
勉強と折り合いの悪かったこにさんは、随分長い間、ベルリンの壁って、西ドイツと東ドイツの国境にあるもんだとばかり思ってました(^^;)。いきおいベルリンという街も西ドイツと東ドイツの国境上にあるもんだと(笑)。だぁって、ベルリンの壁がベルリンの街を分断してるんでしょ?ベルリンの壁ってドイツを東西に分断してるんでしょ? なら、ベルリンは西ドイツと東ドイツの国境上にないと、おかしーじゃん、というわけです(^^;)。
 
あまつさえ、「鉄のカーテン」というキーワードとごっちゃになって、そーかー、東西ドイツの国境には鉄の壁がそびえているのかー、そりゃ越えられないわなー、などどアホなことを漠然と思っておったのであります(笑)。
  
だがしかし、事実は皆様御承知の通り、ベルリンは旧東ドイツにあります。
 
    
            [分割統治されたドイツ]             [分割統治されたベルリン]
  
第二次世界大戦終結直後、ドイツの東側はソ連の管轄となり、ドイツの首都だったベルリンは、そのソ連管轄エリアの中で、更にソ連と英米仏連合国の管轄に区分されたのですね。この東西陣営の管轄が、そのまんま東ドイツ、西ドイツになった。つまり西ベルリンというのは、東ドイツの中の西側飛び地だった、もっと言えば、西ベルリンは、ソ連を名主とする東側諸国の中にぽつんと浮かぶ、西側の島だったわけです。
 
ただ、ひとつの街が東西に分けられたとはいえ、長い間、東西ベルリンの往来は可能で、西に住んで東に通勤するとか、その逆の人もいたとのこと。この往来の自由さ故に、東ドイツの人が、ベルリン経由で西ドイツに流出。その数、毎年数万から数十万だったとか。
 
この農民や技術者の大量流出が、東ドイツ経済に与える打撃を減らす為に、とゆーか、東側諸国から西側への人口流出を憂慮した誰かさんが、これを阻止する為に、1961年にいきなり作ったのがベルリンの壁。最初は有刺鉄線とはいえ、文字通り一夜にして完成させたというのですから、気合の入れ方が違います。なので、壁というと、こにさんなど、ただまっつぐ続いているだけという印象を持っていたのですが、実はベルリンの壁って、西ベルリン全体を取り囲む壁だったのですねぇ。
 
    
   [黄色のマーカーがベルリンの壁]
   
この壁を通過する道路上の国境検問所がチェックポイント。なかでも有名なのがチェックポイント・チャーリーですね。1960年代、東西冷戦緊張の高まりの中、ベルリンは東西スパイが暗躍するスパイ小説や映画の舞台となりました。曰く「寒い国から帰ったスパイ」、曰く「さらばベルリンの灯よ」。60年代に子供時代を送ったこにさんは、だから、ベルリンと聞くと、冷たい雨がしとしとと降りそぼる夜の石畳、というイメージなのです。
 
東からこの壁を越えようとして逮捕された人3000名以上、国境警備隊に狙撃されて命を落とした人は192名。1961年から1989年までの28年間という長きに渡り、ベルリンの壁は、東西冷戦の象徴とされてきました。特にブランデンブルグ門の前の壁は、随分西側の政治的アピールに使われましたね。

          
        [1987.6.12 レーガン大統領の演説 "Tear down this wall"]
  
ベルリンの壁が冷戦の象徴であるからこそ、その崩壊は冷戦の終結に直結するわけで、壁崩壊の原因となったのは、もちろんゴルビーことゴルバチョフ。簡単にまとめると;
 
ゴルビー、ペレストロイカ始める→東欧諸国で民主革命が起きる→ベルリンに壁を命がけで越えなくても西側に出られるルートが出来る→東ベルリンの市民、壁の開放を迫る→東ドイツのホーネッカー困る→でもゴルビーは知らん顔→1989年10月18日、ホーネッカー失脚、東ドイツ国内外の混乱の中、1989年11月9日、西ドイツへのビザ発行規制緩和の法案が通る。
 
っと、ここまでは、ペレストロイカが始まった時点で、ある程度予想された歴史の流れなんですが、あのベルリンの壁崩壊のドラマを生む決め手になったのは、このビザ発行規制緩和を発表する1989年11月9日19:00の記者会見でした。
 
政府の審議を通過した法案は、「11月10日からベルリンの壁をのぞく国境通過点から出国のビザが大幅に緩和される」というもの。ところが、記者会見に臨んだ東ドイツ政府報道官シャポウスキーは、この会議に出席していなくて、よく内容を把握しないまま記者会見の臨んでしまい、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と誤って発表しちゃった。あまつさえ、資料にいつから施行されるのかが書かれていなかったのに、「いつから発行するのか?」という記者からの質問に、「私の認識する限り、直ちにです」と答えちゃった。
 
これがテレビの生放送で流れたものだから、東西ベルリン市民はびっくり。28年間、絶対に超えられなかったベルリンの壁を通れるの?東西ベルリン市民は半信半疑でベルリンの壁に集まりはじめ、何の連絡も受けていない国境警備隊と対立。21時頃には数万人が東ベルリン側でゲートに詰めかけ、「開けろ」コールが地鳴りのように響きわたる。深夜0時前、とうとう警備隊は群衆に屈し、ゲート開放が行われ、東西ベルリンの国境は、ついに開放されました。
 
東ベルリンの群集は、ブンダバーと叫びながら西ベルリンに雪崩れ込み、西ベルリンの群集がそれを歓迎して、抱き合うわ、踊るわの大騒ぎとなったのは、ニュース映像で御存知の通り。あまつさえ、数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーや建築機械が持ち出され、東西ベルリン市民は壁を破壊しはじめました。当然ですが、よっぽど壁が憎かったんですねぇ。
 
    
 
120px-Berlin_Wall_sections_at_Freedom_Park_b.jpg

崩壊ボタン

  ちょいとここに「ベルリンの壁崩壊ボタン」を設置してみました(笑)。クリックするとベルリンの壁が崩壊します。ついでに他のものも崩壊しますが、気にしないでください(笑)。ブラウザ右の上下バーをゆすってやると、更に面白いです。(ちなみに、右のエントリー一覧からこの記事を選んで単独表示した方が、オモシロ効果が増大します)
 
これはウィルスの類ではありませんので御心配なく(^^)。慌てず騒がず、ブラウザのアドレスバー横の再読込ボタンを押すか、戻るボタンを押して、もう一度この記事を選べば、もとに戻ります。
 
さて、ベルリンの壁崩壊の歓喜と感動は、東西ドイツ統一、ひいては冷戦を終結させる原動力となります。
 -同年12月3日、マルタ会談で、米国のブッシュ、ソ連のゴルバチョフが冷戦の終結を宣言。
 -12月25日、バーンスタインが壁崩壊を祝うベートーヴェン第九演奏会をベルリンで開催
 -壁崩壊から1年も経たない1990年10月3日、東西ドイツが正式に統一。
 -そして、翌1991年12月25日のソ連解体へと史は大きく動いて行きます。
 
バーンスタインのベルリンの壁崩壊を祝う演奏会だけでなく、東西ドイツ統一式典で演奏されたのも、ベートーヴェンの第九。ベルリンの壁崩壊、東西ドイツの統一、そして冷戦の終結。”Deine Zauber binden wieder, Was die Mode streng geteilt; Alle Menschen werden Bruder, Wo dein sanfter Flugel weilt.” (喜びよ、汝の力は時の流れが厳しく切り離したものを再び繋ぎあわせる。汝の翼の下に人は皆兄弟となるのだ!)という歌詞が、これほどふさわしいものは無いでしょう。
  
こうした歴史を胸に、バーンスタインが第九を演奏したコンチェルトハウスで、皆さんと第九を歌えるのを、とても楽しみにしています。まだ申込みしてないけど、どしよかな?と思ってるあなたも、ここをクリックして、是非御一緒しましょう(^^)/。
  
## 今回の記事は、主にwikipediaの「ベルリンの壁」「ベルリンの壁崩壊」を参考に書かせて
## 頂きました。
## 「ベルリンの壁崩壊ボタン」は、にとよんさんのブログ「てっく煮ブログ」の記事、「ワリオランドシェイクみたいに HTML が崩壊するブックマークレット(とそのソースコード)」を利用させて頂いてます。
## ここで紹介されているブックマークレットは、どのページでも遊べますので、お楽しみ下さい(^^)。
   

ではでは、またね
こに

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